春の甲子園大会

夢の花咲け・徳栄(上)集団の力、みんなで乗り越える

 3年ぶり4回目のセンバツ出場を決めた花咲徳栄高校(加須市花崎)。同校は、昨夏の甲子園でベスト8まで勝ち進み、優勝した強豪・東海大相模に惜しくも接戦で敗れた。今回は初の夏春連続出場。甲子園「常連校」への一歩を踏み出したチームの軌跡を紹介する。

初代校長の教え「走る」が原点

センバツ出場が決まり、喜ぶ花咲徳栄の選手たち=加須市の同校グラウンドでセンバツ出場が決まり、喜ぶ花咲徳栄の選手たち=加須市の同校グラウンドで

 2月半ば、グラウンド脇で野球部を見守る白梅の花がほころび始めた。梅は、同校の初代校長で19年間にわたって野球部長を兼務した「野球部の母」、故佐藤照子さんが好きだった花だ。2003年のセンバツ初出場を記念して植えられた。

 佐藤さんは「生徒たちがみんなで何かに一生懸命になるのはいいこと」と、1982年の学校創立と同時に野球部をつくり、部長を兼務した。佐藤部長の下で9年間コーチを務めた岩井隆・現監督は「前に立つと背筋が伸びるような厳しい人だった」と振り返る。

 創立後、しばらく野球部は勝てない時代が続いた。90年代になるとプロ野球に進む選手が定期的に出るようになったが、県大会の戦績は伸び悩んだ。佐藤さんから「(試合の)後半に弱い。負けていると、そこから勝とうという気がないように見える」と指摘された。だが、チームには既に厳しい練習を課していた。「なぜ勝てないのか」。コーチだった岩井監督は考えあぐねていた。

 ある時、佐藤さんから「もっと走らせなさい」と指示された。「走って野球が強くなるわけじゃない」と反発する岩井監督に「校長命令だ」と強いてまでこだわったという。

 同じころ、同じ佐藤栄学園が運営する平成国際大学が箱根駅伝初出場を決め、佐藤さんが「(現地で)友情応援しよう」と言い出し、野球部に「白羽の矢」が立った。正月は選手にとって数少ない休日だったが、返上して向かった。1月2日の早朝、野球部員とバスで東京・大手町に駆けつけ、スタート後は神奈川県箱根町を走る5区で応援した。「山登り」と呼ばれる5区は高低差800メートル、23・4キロを駆け上がる行程。岩井監督は、上り坂を見上げて「うちの選手には越えられない」と感じた。そして、佐藤さんの指示の意味に思い至った。「走るのは、野球がうまくなるためではない。チームで乗り越える力をつけるためだ」

 岩井監督は、当初の指導方法について「できない選手だけを見て、『もっとやれ、一生懸命やれ』と厳しく練習させるばかりで、チーム全体が見えていなかった」と省みる。佐藤さんの助言通り「チームで乗り越える」ことを念頭に、走らせ始めると戦績は上り調子になった。チームはその年(2001年)の夏の甲子園に初出場し、03年にはセンバツ初出場を獲得した。「全員で乗り越える」。徳栄野球の原点がここにある。

(毎日新聞埼玉版)

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